当事者意識って薄っぺらくない?
当事者意識って言葉をよく耳にします。
当事者意識って薄っぺらくない?って思った話をします。
その結論に至った経緯は、ある個人的な悩みから始まりました。
その悩みは、『飽きちゃう』というものです。笑
未知の世界にワクワクし、足を動かして、聞いて、知って、話して、やってみる。(行動力あるねって言って貰えるのもここの部分の事かなって思っています)
でもある程度深められると、
「おっけい、理解した!次!」って次の興味分野に移ってしまう笑
なので、
・物事を深められない、目移りする
・何に対しても覚悟を持てない
みたいなところに対して
ったく私ってやつは、、 泣
うおおおおお泣泣泣 ってなってます。
なんで私はこんななんだろうと原因を探ってみると出た答えは、題名の通り、”当事者意識”が重要なのではなく、”当事者である”ことが必要なのかもしれない!という結論になりました。
私は、社会や他者に対して当事者意識が芽生えやすい性質です。
なぜかというと、今まで人にどう思われるかか?を気にして生きて来たので、すぐ感情移入し自分ごとのように捉えてしまうからです。
その為、自分が貧困になった事もないのに、
貧困問題に興味があったり、するわけです。
しかしやがて飽き飽きポイントが訪れます。
①ある物事の概要、問題、原因、今行われている策くらいを知れたら満足する。
②ある物事の社会的認知度が高くなってきたら、それじゃあ”私が”やる必要はないやって思ってしまう。(認知度低いことは、気付いてしまった”私が”やらなきゃ!って思う)
どうしたら私は圧倒的な熱量で、
かつ持続的に物事を深められるんだ。。=当事者である?
過去に自分が体験した痛みや悲しみ、又は喜びって、
感覚的にずっと覚えてると思います。もっとこうあればいいのに!、とか、これが泣けるほど嬉しかった!!とか。
それは、例えば今後何かをやっていく中で、利益が出ないとかステークホールダーとの関係で目先の利益に流されてしまいそうな時、その確かな心の動きが、唯一戻ってこれる場所になるんじゃないかな。初心を思い出し、奮い立つところ。つまり原点回帰の場所。
そういう意味で、熱量を持続させるためには、
当事者意識ではなく、
”当事者である”ことが大事なんじゃないかなって思った次第でした。
ではっ🐒
ジョコー!!(ピグミー語でありがとうって意味です☺️)